441.北井優さんを偲ぶ会と鶴見和子さんを偲ぶ会、そして宇井純さんの葬儀のご報告 (2006/11/22掲載)

1)北井優さんを偲ぶ会のご報告
 本欄 No.437 でお知らせした「故北井優記念会(北井優さんを偲ぶ会)」は、10月28日、友人、知人ら100名以上が参加して
、東京の 日本基督教団目白教会礼拝堂で開かれました。北井さんは、この教会が運営する目白幼稚園に入園して以来、ずっと信者としてこの教会に通っていたそうです。会は、同教会の篠原信名誉牧師が司会をして行なわれ、 賛美歌285や298などがオルガンの伴奏で歌われました。祈祷の後、多くの友人が彼への熱い思いをつぎつぎと語りました。話をされたのは、関口照生(写真家)、吉川勇一(元ベ平連)、野田裕次(神奈川大学講師)、森永博志(編集者)、田中知之(ミュージック・プロデューサー)、戸井十月(作家)、榎本芳弘(目白教会代表)、谷中敦(ミュージシャン)のみなさんでした。年齢や職業、北井さんとの付き合いの仕方、思想などの違いを超えて、彼を知るすべての人たちから、彼が深く愛されていることがひしひしと伝わってくるよい話が続きました。
 牧師さんは、北井さんの学生時代の思い出や、ガンに侵されて死を覚悟せざるを得なくなってから、教会を訪ねてきたときのことなどを語りました。学生時代の話では、北井さんを含む若者たちが、教会の一室で何かガサゴソやっているので覗いてみたら、卵をたくさん抱えて中身を吸い出していたので、何をやっているのか聞いたところ、空いた卵の殻に白ペンキを詰め込んで機動隊に投げるんだ、という説明にびっくりし、ここはベ平連の事務所じゃないんだ、ほかでやってくれ、とたしなめたことがあったというエピソードを紹介されました。彼らの反戦への志には共感していたが、極端な行動にまで走らぬように、少し意見をしたのだ、ということでした。白ペンキ入りの卵は、機動隊にというよりは、新宿を通過して横須賀から横田へ米軍機の燃料を運ぶ米軍タンクローリー車に投げるためのもので、その件では、当時のベ平連の若者たちから逮捕者も出ましたし、事務所も家宅捜索を受けたことがありました。その行動に加わった当時の青年たちからも、何人かがこの会には参加していましたし、また、北井さんが活動していた米反戦脱走兵への援助活動のグループ、「ジャテック」のメンバーも何人も出席していました。
 北井さんは亡くなる前に牧師さんに、「 いい加減な生活っていうものもいいもんだ」と言ったそうです。また音楽仲間の田中さんには、「田中、俺の人生は最高だったなぁ」と言ったそうです。「いい加減な生活」と北井さんが言ったのは、自分の思うところに 従ってやりたいことを自由につぎつぎとやった人生ということであり、つまり「最高に幸せな」生涯だったということなのでしょう。ただ、早すぎた死ということだけを別として……。
 小田実さんや関西の活動家からは生花が贈られ、また、小田さんからの次のようなメッセージも 、吉川さんの話の中で紹介されました。「『北井氏は、当今まれな純な魂の持ち主だった。私はその魂に、大いに支えられた』と、私の彼への重い思いをお伝えくださればさいわいです。二年前、ベトナムの人たちが来たとき、東京から相模原まで、彼の車で行ったときのことを思い出します。彼はそこでよくしゃべりました。彼の魂の純粋さに、そのとき触れました。10月26日 小田実」
 会が終わってから、かつてのベ平連の仲間たち10人ほどは、近くのコーヒー店で、しばらく思い出の華を咲かせて話し合いました。この「偲ぶ会」は、いい会でした。
 なお、ご遺族は、実姉の改発栄子さん(奈良市在住)です。

(2)宇井純さんの葬儀
 本欄 No.439 でお知らせした宇井純さんの葬儀は、11月15日の夜にお通夜、16日の昼前に告別式が、東京、五反田の桐ヶ谷斎場で行なわれ、それぞれ200人以上の参列者がありました。宇井家の菩提寺が曹洞宗であることから、式はこのお寺の住職を招いての仏式で行なわれました。かつてのベ平連の仲間からは「旧ベ平連有志」の名で、生花が贈られ、それは正面の宇井さんの写真の左側に飾られていました。
 当日配布された喪主で夫人の宇井紀子さん名義のご挨拶状には、以下のような宇井純さんの言葉が記されていました。

     
 
     宇井 純 講演より

  人生には 自然を破壊したり
  人びとを苦しめたりしないで済む
  そういう選択をする機会が必ずある
  もし人が 生涯にたったひとつでいい
  本当に良かれと思う選択をしてくれたなら
  この社会はきっと変わるはずだ

 

 かつての反公害自主講座の活動家や、各地の環境問題の活動家たち、そして多くの研究者、学者の仲間たちが多数参加し、お通夜の後の席では、宇井さんの業績をたたえる話や早い逝去を惜しむ思いが語られていました。
 (旧ベ平連のメンバーで宇井さんを知られる方へのお願い。葬儀にお贈りした生花は「旧ベ平連運動基金」から支出しました。お志のある方は、同基金宛に一口1,000円ほどの寄金をお送りくださるよう、お願いいたします。同基金の郵便振替口座は、00120-7-83204 旧ベ平連運動基金 です。)

(3)鶴見和子さんを偲ぶ会のご報告
 本欄 No.433 でお知らせした鶴見和子さんを偲ぶ会は、11月20日の午後〜夜に、東京・丸の内の東京会館ローズルームで開かれました。300人近い参加者で、会場は満席になりました。 詳しくはいずれ藤原書店のほうから記録が出ると思われますので、ここでは、ごく簡単にご報告します。
 会に先立って、午後2時からは、同会館のチャペルで、プリンストン留学以来の知己である柳瀬睦男神父によるミサが、近親者とごく親しい知人の参加で行なわれました。ご遺族では、弟さんの鶴見俊輔・貞子さんご夫妻や妹さんの内山章子さん、俊輔さんのご子息の鶴見太郎さんほか多くの方が見えておられました。
 3時からの「偲ぶ会」は二部に分けられ、第一部「鶴見和子さんを語る」
では、NHKのアナウンサーで和子さんのインタビュー番組をつくった迫田朋子さんの司会 により、多田富男(免疫学)、志村ふくみ(染色家)、中村桂子(生命誌)、西川千麗(日本舞踊家)、川勝平太(経済史)、武者小路公秀(国際政治学)、赤坂憲雄(民俗学)、松居竜五(比較文化学)、西川潤(経済学)、服部英二(比較文明学)の10人の方が話をされました。鶴見さんの学問、思想、そして和歌、日本舞踊、和服、そしてなくなられるまでの闘病など、実に幅の広い生き方について、それぞれの立場からのお話でしたが、すべて和子さんの「生命の輝き」、「生命の光」とでもいうべき生涯を生き生きと語るいいお話ばかりでした。いずれ、それらは、記録が公けにされるものと期待されます。
 そのほか、加藤周一、ロナルド・ドーア、緒方貞子、石牟礼道子、佐々木幸綱さんからのメッセージが披露されましたが、すべては肉声による録音で紹介されたのでした。また、和子さんの労作のほとんどを出版し、この会の準備の中心になってきた藤原書店 社長の藤原良雄さん、京都・文教大学で鶴見和子文庫の運営に当たっている西川祐子さんからも報告がありました。
 第二部「鶴見和子さんを偲ぶ」では、三木睦子、ヨゼフ・ピタウ、高野悦子さんのスピーチの後、俳人の金子兜太さんの音頭で献杯が行なわれ、さまざまな飲み物や食べ物を味わいつつ、多く方の思い出の話が次々と続きました。その中では、澤地久枝さん、大石芳野さん、綿貫礼子さんらもお話になり、また、旧ベ平連からは、吉川勇一さんが、鶴見和子さんの和歌の中の脱走兵援助の歌を何首か紹介しつつ、米反戦脱走兵、テリー・ホイットモアの自伝から、彼が練馬の鶴見さんのお宅に匿われていたときの部分を朗読しました。
 最後に、妹さんの内山章子さんから、なくなられるまでの病状と闘病の模様が報告され、弟さんの鶴見俊輔さんから、参加者への謝辞が述べられて、午後8時過ぎに閉会となりました。内容の非常に充実したいい「偲ぶ会」になりました。
 会費は1万円という額でしたが、参加者には、DVDで、鶴見和子さんが自撰・朗詠されている『鶴見和子短歌百選――「回生」から「花道」へ』(藤原映像ライブラリー、\4,800)と、和子さんが好んでおられたという小田原市の和菓子店「菜の花」の作った和菓子「あづき月福」の大きな折り詰めが贈り物とされました。
 なお、会場正面には大きなスクリーンが下がり、メッセージを寄せられた人の写真や、鶴見和子さんのもう一つのDVD『回生――鶴見和子の遺言』も流されました。このDVDも藤原書店発売です(\9,500+税)。

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